最終更新: suzuki_hayate 2022年03月21日(月) 16:40:27履歴
ビザンツ・ギリシア帝国の属州の一つ。
古代マケドニアは、現在のマケドニアに加え、ブルガリアとギリシアの一部を含むアレクサンドロス3世の王国だった。紀元2〜7年頃まで栄えたが、146年にローマ帝国のバルカン進出に伴い、ローマ帝国の属州となった。
元々バルカン半島の先住民族は、山岳地の少数民族たちである。古くから「民族のごった煮」と言われる程様々な民族がこの地に定住し、複雑な民族構成を作り上げてきた。6〜7世紀にかけてスラヴ人が大量に移住。これがやがてマケドニア人となった。しかし、マケドニア人と言う民族は旧ユーゴスラビアにおいて認められたもので属州内のマケドニア人は既に同化政策でギリシア人となっておりマケドニア人と言う固有の民族はほぼ消失している状態にある。
395年にローマ帝国のテオドシウス帝が無くなると、バルカン半島はビザンツ帝国の一部となった。隣接するアエトリア連邦(以下ブルガリアと呼称)では9世紀後半、力を拡大しそれによってマケドニア地方を支配下に置いた。ブルガリアはオフリドにブルガリア正教を建築するなどして、芸術や文化の中心地としてオフリドを位置づけた。しかし、10世紀後半になると、バルカン半島の大部分を占めていたブルガリアも徐々に衰退していった。それによりビザンツ帝国との領土争いが激化した。
1018年、マケドニアは再びビザンツ帝国の支配下に入った。しかし、再びブルガリアが力をつけマケドニアを取り合う事となった。13世紀になるとブルガリア北方のセルビア帝国がブルガリアを破り今度はセルビア帝国に支配される事になった。
セルビア皇帝ステェファン・ドウシャンは、マケドニアからアルバニア、ギリシアの一部まで支配地を広げた。ところが1390年のコソボの戦いで北上するオスマン帝国に敗れたのをきっかけに、1430年にはオスマン帝国がバルカン半島に進出。マケドニアはオスマン帝国の領土に組み込まれた。以後1912年まで、マケドニアはオスマン帝国のもとで発展を続けることになる。
しかし、長きにわたるオスマン帝国の支配は、バルカンの各地の住民の不満を募らせていった。そしてボスニア・ヘルツェゴヴィナから波及した農民の蜂起は1878年、露土戦争へと発展し、ロシア帝国が勝利した。それによりサン・ステファノ条約が結ばれ、マケドニアは一旦ブルガリアの領土となるものの、反発したオーストリア=ハンガリー二重帝国とイギリスによるベルリン会議で再度オスマン帝国領になった。
以来、マケドニアの領土は周辺各国の領土争いの中心となり、オスマン帝国の弱体化に伴い1912年、第一次バルカン戦争が勃発。ブルガリア、セルビア、ギリシアの同盟国軍がオスマン帝国に宣戦布告し勝利を挙げた。これにより、マケドニアは勝利した3国に分割された。
しかしその後、領土配分を巡ってセルビア、ギリシア、ルーマニア、モンテネグロ、オスマン帝国の同盟国軍とブルガリアが対決する第二次バルカン戦争が起こる。ブルガリアは大敗を喫するが、マケドニアの領土については相変わらず先の3国に分割されたままとなった。
そのマケドニアがマケドニア人の共和国として認められるのは、ユーゴスラビアが建国されてからの事になる。しかし、第二次世界大戦末期にビザンツ・ギリシア帝国の侵攻を受けマケドニアはコソボと共に属州マケドニアとなりギリシアの傀儡となった。その後は国内で同化政策が行われたが、元々歴史的に各国の領土争いの的となっていたマケドニア人は自らの民族の意識は薄く、アイデンティティはないに等しかった。そのため、彼らはマケドニア人と言う意識は既になくギリシア人と言う事になっている。
元々バルカン半島の先住民族は、山岳地の少数民族たちである。古くから「民族のごった煮」と言われる程様々な民族がこの地に定住し、複雑な民族構成を作り上げてきた。6〜7世紀にかけてスラヴ人が大量に移住。これがやがてマケドニア人となった。しかし、マケドニア人と言う民族は旧ユーゴスラビアにおいて認められたもので属州内のマケドニア人は既に同化政策でギリシア人となっておりマケドニア人と言う固有の民族はほぼ消失している状態にある。
395年にローマ帝国のテオドシウス帝が無くなると、バルカン半島はビザンツ帝国の一部となった。隣接するアエトリア連邦(以下ブルガリアと呼称)では9世紀後半、力を拡大しそれによってマケドニア地方を支配下に置いた。ブルガリアはオフリドにブルガリア正教を建築するなどして、芸術や文化の中心地としてオフリドを位置づけた。しかし、10世紀後半になると、バルカン半島の大部分を占めていたブルガリアも徐々に衰退していった。それによりビザンツ帝国との領土争いが激化した。
1018年、マケドニアは再びビザンツ帝国の支配下に入った。しかし、再びブルガリアが力をつけマケドニアを取り合う事となった。13世紀になるとブルガリア北方のセルビア帝国がブルガリアを破り今度はセルビア帝国に支配される事になった。
セルビア皇帝ステェファン・ドウシャンは、マケドニアからアルバニア、ギリシアの一部まで支配地を広げた。ところが1390年のコソボの戦いで北上するオスマン帝国に敗れたのをきっかけに、1430年にはオスマン帝国がバルカン半島に進出。マケドニアはオスマン帝国の領土に組み込まれた。以後1912年まで、マケドニアはオスマン帝国のもとで発展を続けることになる。
しかし、長きにわたるオスマン帝国の支配は、バルカンの各地の住民の不満を募らせていった。そしてボスニア・ヘルツェゴヴィナから波及した農民の蜂起は1878年、露土戦争へと発展し、ロシア帝国が勝利した。それによりサン・ステファノ条約が結ばれ、マケドニアは一旦ブルガリアの領土となるものの、反発したオーストリア=ハンガリー二重帝国とイギリスによるベルリン会議で再度オスマン帝国領になった。
以来、マケドニアの領土は周辺各国の領土争いの中心となり、オスマン帝国の弱体化に伴い1912年、第一次バルカン戦争が勃発。ブルガリア、セルビア、ギリシアの同盟国軍がオスマン帝国に宣戦布告し勝利を挙げた。これにより、マケドニアは勝利した3国に分割された。
しかしその後、領土配分を巡ってセルビア、ギリシア、ルーマニア、モンテネグロ、オスマン帝国の同盟国軍とブルガリアが対決する第二次バルカン戦争が起こる。ブルガリアは大敗を喫するが、マケドニアの領土については相変わらず先の3国に分割されたままとなった。
そのマケドニアがマケドニア人の共和国として認められるのは、ユーゴスラビアが建国されてからの事になる。しかし、第二次世界大戦末期にビザンツ・ギリシア帝国の侵攻を受けマケドニアはコソボと共に属州マケドニアとなりギリシアの傀儡となった。その後は国内で同化政策が行われたが、元々歴史的に各国の領土争いの的となっていたマケドニア人は自らの民族の意識は薄く、アイデンティティはないに等しかった。そのため、彼らはマケドニア人と言う意識は既になくギリシア人と言う事になっている。
属州弁務官による統治が行われている。本来はギリシア人のみが政治に参加出来るが属州内の旧マケドニア人は既にギリシア人となっているため彼らにも一部だが政治への参加が可能となっている。
しかし、それは旧マケドニア人のみでありそれ以外の民族、アルバニア人等は未だに同化政策が続いており彼らには政治への参加権はない。
しかし、それは旧マケドニア人のみでありそれ以外の民族、アルバニア人等は未だに同化政策が続いており彼らには政治への参加権はない。
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