グラン・メキシコ社会主義連邦共和国
República Federal Socialista del Gran México
国の標語:万国の労働者よ、団結せよ
¡Proletarios de todos los países, uníos!
国歌:インターナショナル
La Internacional
公用語スペイン語
首都メキシコシティ
最高指導者レオン・グランディーン
面積1,972,550㎢
人口約1億3000万人
通貨ペソ

概要

グラン・メキシコ社会主義連邦共和国(スペイン語:República Federal Socialista del Gran México、英語:Socialist Federal Republic of Great Mexico)は北アメリカ大陸南部に位置する連邦国家。1都31州の合計32の連邦構成主体を持つ。北でアメリカ合衆国、南でグアテマラ、ベリーズ、東でカリブ海とメキシコ湾、西太平洋に接する。人口はおよそ1億3000万人で、毎年2を超える合計特殊出生率と、大量の移民受け入れ政策によって、毎年1.2~1.5%程度の人口増加率となっている。通貨単位はペソで、GDPは名目GDPで12兆8000億ペソ(2兆1000億ドル)、購買力平価GDPで33兆8800億ペソ(7兆2000億ドル)となっている。

国名の変遷

グラン・メキシコとは、「偉大なメキシコ」「大メキシコ」を意味する。「メキシコ」の名は独立戦争中の1821年に決定されたもので、「メシトリの地」という意味である。アステカで最も広く信仰されていたウィチロポチトリ神の別名である「メシトリ」に由来する。1821年の独立直後は「メキシコ帝国」を名乗っていたが、米墨戦争に敗北したことで帝政が1848年に崩壊し、単一共和制の「メキシコ共和国」に国名を改めた。その後ナポレオン3世率いるフランス軍によるメキシコ出兵が行われると傀儡政権である「メキシコ第二帝国」が誕生したが、民衆はフランスの軍事力を背景に統治を進める第二帝政を支持せず、1967年には共和派の武装蜂起で第二帝政も崩壊した。その後、「メキシコ共和国」の国名が復活したが、中央集権的な統制を推し進めようとする統制派と、自由主義的な政治を推し進めようとする自由派が二大政治勢力として争い、対フランス戦争の英雄ディアスが率いる統制派が勝利したため、共和政とは名ばかりのものとなってしまった。1914年、メキシコは第一次世界大戦に参戦、大戦特需で大きく経済成長を達成するが、増大した労働者階級は劣悪な労働環境に不満を抱くようになった。1925年、都市労働者のストライキに対しディアスが発砲したことを機にメキシコ革命が勃発、「メキシコ社会主義共和国」が誕生した。1980年、憲法改正に伴い国号が「グラン・メキシコ社会主義連邦共和国」に改称され、現在に至る。

地理

北米大陸南部に位置し、面積はおよそ197万㎢である。陸上国境は合計4353kmであるのに対し海岸線は約14000kmである。陸上国境ではアメリカ合衆国と接する部分が最も長く、3000kmを超えている。国内では、アメリカ合衆国東部のアパラチア山脈から大西洋岸に沿って続くワシタ造山帯と、アラスカから太平洋岸に沿って続くコルディレラ造山帯が合流する。このため、北に接するアメリカ合衆国と異なり、国内に安定陸塊は存在せず、国土の大半は造山帯または大陸地殻延長部となっている。比較的砂漠の多い北部の平均標高は1000m、中部に至っては平均標高が2000mを超える高原の国である。地向斜とプレート運動が組み合わさることで褶曲山脈を形成するほか、国内最高峰である標高5690mのシトラルテペトル山を始め、新規の造山活動によって生まれた標高の高い火山も存在する。最長の河川は米墨国境を流れるリオグランデ川で、長さは3057kmである。国土の北西部にはカリフォルニア半島が、国土の南東部にはユカタン半島が存在し、ユカタン半島には白亜紀末に恐竜大絶滅の引き金を引いた巨大隕石の衝突痕であるチルクシューブ・クレーターを見ることができる。
気候は、北部は乾燥したステップまたは砂漠気候、南部はサバナ気候、熱帯モンスーン気候、熱帯雨林気候などが広がる。メキシコ湾岸周辺には温暖湿潤気候が、中部の山岳部には温帯夏雨気候や山岳気候がみられる。首都メキシコシティは標高2200m付近にあり、1月の平均気温は13~14度、7月の平均気温は16~17度で、典型的な高山気候となっている。温暖な気候を生かし、カリフォルニア半島のラパス、ユカタン半島のカンクン、中部のアカプルコなどは大きなリゾート都市として知られている。
比較的地下資源にも恵まれている。銀は世界第2位、銅は世界第3位の埋蔵量を誇る他、鉛と亜鉛は世界第6位、モリブデンは世界第8位、金は世界第11位となっている。また、メキシコ湾沿いに大量の海底油田が存在し、化石燃料の自給率は100%となっている。このほか、鉄鉱石や石炭も国内で生産が可能である。これらの地下資源を生かして、重工業が発達している。

歴史

より詳細な内容についてはグラン・メキシコの歴史?を参照
アステカ文明
メキシコには紀元前2万年頃より人間が居住していた痕跡があるとされている。確認されている最初のメキシコの文明は紀元前1300年のオルメカ文明で、紀元前800年ごろにはテスココ湖南方に4層の巨大円形ピラミッドで有名はクィクィルコ、紀元前600年ごろにはテスココ湖東方に巨大都市テオティワカンが建設された。またユカタン半島にはマヤ文明が誕生した。
14世紀、テノチティトラン、テスココ、トラコパンの3国はアステカ三国同盟を形成していたが、最終的にテノチティトランが覇権を握り、アステカ帝国を興した。現在のメキシコシティの位置に存在した首都テノチティトランを中心に、当時の中年米で比類のない軍事力により最盛期には南方のコスタリカにまで支配を拡大した。
スペイン植民地時代
しかし15世紀末の1492年にクリストファー・コロンブスがアメリカ大陸を「発見」すると、1519年にはアステカ帝国の地にエルナン・コルテスが上陸、アステカ帝国の征服を開始した。アギラールとマリンチェの2人の通訳を用いてアステカ内部のいざこざを利用していくつかの部族と同盟、続いて銃と鉄製防具を持つ彼らはアステカ帝国を蹂躙し、1521年にはテノチティトランを攻略し皇帝を惨殺した。征服されたテノチティトランは徹底的に破壊され、その上から現在のメキシコシティが建設された。1535年にヌエバ・エスパーニャが創設されると、メキシコシティはその中心となった。
1635年以降は、スペイン王によって任命されるヌエバ・エスパーニャ副王が統治者として君臨する植民地となった。スペインによるアジア〜ヨーロッパ貿易の中継地点としての役割を果たした。また、1546年以降、メキシコでは銀ブームが発生、銀を求めてスペインから多くの開拓者がなだれ込み、白人と先住民の間に生まれた混血者は「メスティーソ」と呼ばれるようになった。メキシコから本国に流入する銀はスペインの財政を支えたが、時にインフレーションを引き起こした。ヌエバ・エスパーニャでは、ローマ・カトリックが強制的に布教された。一部領土が英仏などの新しい列強や先住民の攻撃により失われることはあったが、ヌエバエスパーニャの中心であるメキシコは、1821年の独立まで維持された。
独立戦争と帝政
ナポレオン戦争によってスペイン本国がヌエバ・エスパーニャの統治に注力できなくなった19世紀初頭、メキシコでは独立運動が活発化した。メキシコ最初の大規模な独立反乱は、地方都市ドレロスの司教だったミゲル・イダルゴ・イ・コスティーリャによるものだった。この反乱は、暴徒化した農民や労働者によるもので、白人全体を敵視し虐殺を繰り広げたことで、民衆の恐怖と憎悪の対象となり、最終的に政府軍の待ち伏せにより反乱軍が大敗しイダルゴが1811年7月に処刑されたことで終焉を迎えた。しかし彼の影響を受けた者たちによってその後メキシコ各地で反乱は相次いだ。1812年には南部でホセ・マリア・テクロ・モレーロスが大規模な反乱を引き起こした。イダルゴの反乱とは異なり、モレーロスの手でよく訓練された軍人たちがゲリラ的に戦闘を繰り広げたため、副王の軍は苦戦、一時はオアハカやアカプルコといった主要都市が抑えられるに至った。しかし1814年にナポレオン戦争がナポレオンの敗北によって終結し、スペイン本国ではフェルナンド7世が国王に返り咲いたこともあって、スペイン本国は反乱に対して本腰を入れて対応を開始、1815年12月、モレーロスは銃殺された。
ヌエバエスパーニャ副王は、1820年、武器を捨てた反乱者には残らず恩赦を与えると布告した。1820年12月、メキシコ北部で武装蜂起をしていた最後の反乱軍であるビセンテ・ゲレーロ軍に対する政府軍の掃討が開始された。掃討軍の司令官は、王党派の白人であるアグスティン・デ・イトゥルビデだった。彼はモレーロスの反乱を鎮圧する際に活躍した厳格かつ有能な軍人で、王党派から熱狂的な支持を集めていた。イトゥルビデの掃討軍がゲレーロ軍が拠点とするオアハカ州へと行軍している間、ヌエバ・エスパーニャにスペイン本国でフェルナンド7世の独裁政治に対する軍事クーデターが成功したとの報が入った。植民地の保守派・王党派クリオージョは母国の自由主義的な臨時政府に対して反抗して立ち上がった。1821年2月24日、イトゥルビデはゲレーロと会談、メキシコのスペインからの独立のための三原則「イグアラ綱領」を発表した。イトゥビルデとゲレーロの軍隊は合流し、イアグラ綱領を実現するための新しい軍隊、「三つの保証軍」が動き出した。1821年8月24日、ベラクルス州のコルドバで、イトゥルビデと副王との間でイグアラ綱領を確認するコルドバ条約が結ばれ、メキシコの独立が決定した。
征服戦争と敗北
イトゥビルデは独立を達成すると、当初はスペイン本国から皇帝を迎え入れようと画策したが、拒否されたため、自ら皇帝「アグスティン1世」を名乗り即位、メキシコ帝政が成立した。アグスティン1世はメキシコ人のナショナリズムを扇動し徴兵制による大規模な軍隊を建設、1828年からヌエバ・エスパーニャ最盛期の版図を取り戻すことを目的に大規模な征服戦争を開始した。1822年より中米諸国に対する「レコンキスタ」が行われ、さらに各地の自由主義者の反乱に対する鎮圧が進められた。1836年には一方的に独立を宣言したテキサスに対し懲罰戦争を行い、各地でアングロサクソン系独立軍を撃破するが、アメリカが支援するサミュエル・ヒューストンの率いる独立軍の猛烈な抵抗で大きな損害を出し、国内産業の疲弊などから撤退を余儀なくされた。さらにテキサスからのメキシコ軍の撤退と共にカリフォルニアが独立を宣言、しかしアグスティン1世はこれを追認した。メキシコ国内では彼の退位を求める声が強くなった。しかし1838年から行われたメキシコの植民地化をもくろんだフランスによるメキシコ出兵をアグスティン1世は退け、再び救国の英雄としてのカリスマ性を取り戻した。
1841年より、アグスティン1世率いるメキシコ帝国軍は大軍を率いて北上、まずはカリフォルニアの再征服を目指した。1845年にアメリカ合衆国がテキサス共和国を併合すると、アグスティン1世はアメリカに宣戦布告、米墨戦争が勃発した。テキサスでのいくつかの戦いでアグスティン1世は勝利し、アメリカ軍を追い込んだが、メキシコ湾における海戦でアメリカ海軍に大敗、メキシコシティの外港であるベラクルスにアメリカ軍が上陸したためテキサスとカリフォルニアからの撤退を余儀なくされ、さらにモンテレイの戦いで追撃してきたアメリカ軍に完敗、1847年にはメキシコシティにアメリカ軍が入城し、メキシコ帝政は崩壊した。各地で弾圧されていた自由主義者が復権し、アグスティン1世は廃位されて処刑された。
第一共和制と第二帝政
1848年にアルバレスら自由主義者が臨時政府を樹立すると、臨時政府は自由主義に基づいたレフォルマ改革を行った。徹底した政教分離による保守勢力の後ろ盾となっていたカトリック教会を政治に口出しできないようにし、司法制度の近代化を図り、先住民を含めた全てのメキシコ人の法の下での平等を実現した。さらに1850年には新憲法を制定した。このレフォルマ改革はメキシコ社会に大きな影響を与え、近代的な価値観がメキシコにもたらされた。しかしその反面、既存の保守派の猛反発、そして農民の保守派への合流を引き起こし、1851年には全国各地で農民と保守派による大反乱が起きた。
1852年12月1日に新憲法下初の大統領選挙によって自由主義穏健派のコモンフォルトが就任したが、12月17日にスロアガ将軍がクーデターを起こしコモンフォルトは失脚した。しかし当時の最高裁判所長官であったベニート・フアレスは保守派への徹底抗戦を誓ってアメリカ合衆国に亡命、自由主義者から構成される軍を率いてベラクルスに上陸、臨時政府を樹立した。フアレスのベラクルス臨時政府は3年に及ぶ長い戦いの末1860年12月25日にメキシコシティを攻略し戦争を終結させたが、内戦の際に膨らんだ有償支援の返済が追いつかなくなり、債務不履行に繋がることになった。
1861年にメキシコが債務不履行を宣言するとメキシコへ多額の借款を貸し付けていたフランスを中心に連合軍が派遣され、メキシコ全土で激しい戦いが行われた。1863年、フランス軍は激戦の末メキシコシティを制圧、メキシコ第二帝政を宣言した。
第二帝政は1863年に成立したが、1867年には崩壊した。最も大きな要因は、フランス軍の支配を民衆が歓迎しなかったことである。メキシコ南部ではポルフィリオ・ディアス将軍が活躍し、フランス軍の侵入を阻み続けた。1866年、アメリカから圧力を受けてフランス軍がメキシコから撤退すると、後ろ盾を失ったメキシコ第二帝政は崩壊、第二共和政が樹立された。ディアスは「救国の英雄」としての名声を獲得、政治的影響力を徐々に高めた。
第二共和政とディアスの独裁
第二共和政では、フアレス率いる「自由派」と、ディアスを中心とする「統制派」が激しく争った。1867年の大統領選挙でディアスはフアレス大統領と争うが敗北、軍を退役した。1871年6月の選挙にも再び出馬するが敗北、8月にはクーデターを起こすが失敗し逮捕される。1872年にフアレスが病死すると、ディアスは恩赦により釈放され、アメリカに亡命した。軍人たちの要請を受けて1876年7月の大統領選挙に合わせて帰国し出馬するが、セバスティアン・レルド・デ・テハーダに敗北する。またしてもクーデターを起こし、今度は成功、1876年11月29日に自身を大統領に任命した。

ディアスはメキシコを近代国家にするため大規模な近代化計画を実施した。「シエンティフェコス」と呼ばれる経済計画が策定され、鉄道網と電信網の整備、首都の外港であったベラクルスと首都メキシコシティ間の鉄道の建設が行われた。彼の統治の下で、メキシコ国内の線路の総延長はそれまでの10倍に増加した。また蒸気機関など新技術を積極的に導入、外国からの投資を受け入れてメキシコシティへの工場の建設を促進した。これにより、都市の無産階級が増加、また外国経済の動向に国内経済が左右されることとなった。一方、農村の改革は進められず、ディアスが恣意的に任命した知事たちと各地の大農園アシェンダの経営者たちが癒着し、農民たちは次々と自分の土地を失ってアシェンダの農業労働者と化した。不満を持つ農民の反乱は軍に鎮圧され、農村の生産効率は著しく低下した。メキシコは鉄道、港湾、通信網などのインフラの整備と、新たな銀行の設立・商業の活発化・工業や農牧業が拡大し、経済発展を遂げた。一方、これらの産業の発展の恩恵は一般市民には還元されず、特権階級と一般市民の格差は極度に拡大した。(なお、これらの政策のもたらした正負の側面は後に、社会主義体制下の計画経済においても参考とされたようで、1940年代以降の経済計画では重工業においては計画経済を導入する一方、農民については公平に土地を分配し生産意欲を鼓舞することが重視された。)
1907年にアメリカで恐慌が発生すると、アメリカ資本によって発展していたメキシコを恐慌が直撃、ディアスに対する不満が爆発、メキシコ第一革命が発生した。ディアスは改革を約束する一方、無法者に対しては容赦ない措置を断行する「飴と鞭」政策を進め、この危機を乗り切った。第一革命を主導したフランシスコ・マデーロは、迫害を逃れて米国に亡命した。
1914年から第一次世界大戦が勃発すると、大戦特需によりメキシコ経済は復興、これによりディアスの支持率も高まった。大量の武器弾薬が生産されてヨーロッパに運ばれたほか、自動車産業と造船産業が発達した。しかし大戦が終結すると1921年には戦後恐慌が発生し景気が大幅に後退、大幅に増加した無産階級はディアスへの不満を強めた。
革命と内戦
1922年、ディアスの独裁に反対する無産階級のデモに対し軍隊が発砲したことを機に全国で暴動が発生、メキシコ市の南隣であるモレーロス州では、エミリアーノ・サパタが武装蜂起した他、北部一帯ではフランシスコ・ビリャ、パスクァル・オロスコ、ベヌスティアーノ・カランサ、アルバロ・オブレゴンらが続々と反乱を起こした。さらに恐慌の拡大により給与未払いの問題から軍人の一部も離反を開始した。メキシコシティを守備していた第1親衛歩兵連隊がデモ隊に加わったことでディアスはアメリカに飛行機で逃亡、逆にアメリカから帰国したフランシスコ・マデーロが大統領に就任した。当初マデーロは農民たちの熱狂的な支持を集めていたが、マデーロはメキシコに近代的な民主国家の制度を導入して政治システムを改良することには興味を示したものの、貧富の格差を解消したり、土地を分配したりして農民の生活苦を解消することには意欲的でなかった。こうしてマデーロは急速に求心力を失っていった。一方、保守層からも、ディアスほどの政治的手腕がないマデーロは見限られつつあった。
こうして、全国で反マデーロ闘争が行われるようになった1923年2月、マデーロを見限った軍司令官ビクトリアーノ・ウエルタが首都メキシコシティで保守派と共に反革命クーデターを起こし、マデーロ一派を虐殺した。しかしウエルタの反革命クーデターは、最終的に、全ての革命派に対し敵対することとなった。サバタ、ビリャ、オロスコ、カランサ、オブレゴンらの名だたる革命軍指揮官は、次々とウエルタの排除を掲げてメキシコシティへと向かった。しかしウエルタを排除したのち、革命軍内でも対立が深まり、メキシコは事実上の内戦状態に陥った。裏切りに裏切りを重ねた泥沼の内戦の結果、1925年にオブレゴンが勝利し大統領に正式に就任した。しかし1928年、演説中に保守系のキリスト教徒によりオブレゴンは暗殺される。オブレゴンの政権で副大統領を務めていたプルタルコ・エリアス・カリェスが権力を握り大統領に就任、その後も歴代の大統領を傀儡としたため、政治の腐敗が進行した。しかし1934年、傀儡の大統領として立てられたラサロ・カルデナスが民衆の支持を背景にカリェスらを逮捕、さらに腐敗の根源となっていた労働組合について抜本的な改革を行うため、共産主義者たちを抜擢、カリェスの独裁は終焉した。
計画経済と第二次世界大戦
1937年、ソ連での迫害を受けてレフ・トロツキーがメキシコに亡命する。トロツキーはこの地で反ファシズム・反スターリニズムの社会主義国家を建設することを夢見ていた。NKVDの刺客により幾度となく暗殺されかけたトロツキーであったが、幸運が重なり生存し続けた。1940年には刺客にピッケルで後頭部を殴られる直前に偶然トロツキーの部屋に入室しようとした愛人が、刺客がピッケルを振り上げていることに気が付き、とっさに手元の本を刺客に向かって投げつけ、叫び声をあげて警備兵を呼んだことで一命をとりとめた。この事件ののち、トロツキーはカルデナス政権の庇護下に置かれた。トロツキーは実質的にメキシコの政治顧問として、カルデナス政権に大きな影響力を持った。前衛党たるメキシコ人民民主党がボリシェヴィキに倣って組織化され、立法府を支配した。レーニンのネップ政策に倣った農村改革で、恐慌と内戦で疲弊した農村の回復が進められた。重工業分野ではトロツキーの政敵であったスターリンと同様の計画経済が導入され、ディアス時代のインフラの近代化に加え、農業用機械や軍向けの自動車の生産が拡大、さらにイタリア海軍の設計者らを招き、メキシコ湾やカリブ海のパトロールを目的とする沿海海軍の建設も着手された。
第二次世界大戦では反ファシズムの立場から連合国側で参戦した。アメリカ人技術者を導入して工場生産のライン化を推進、大幅に生産効率を向上させ、大量の小銃と戦車と護衛艦を連合国に供給、アメリカと共に「反ファシズムの兵器廠」と呼ばれた。ノルマンディー上陸作戦とその後の西部戦線において2個師団を派遣、貴重な近代戦の経験を積んだ。
第一次高度経済成長
1940年代後半から1950年代後半にメキシコは第一次高度経済成長を迎えた。教育制度の改革と共に、農村の青年の都会への集団出稼ぎが推奨され、子供たちは「金の卵」と呼ばれた。スターリンが死亡し、脱スターリン化を目指すフルシチョフの歩み寄りによりメキシコとソ連は同じ社会主義国同士でありながら長らく続いていた対立を解消し、軍事分野での協力を深めていったが、一方でメキシコと米国との関係も第二次世界大戦当時ほどの蜜月ではなかったが冷え込んでいるというほど悪化したわけでもなく、技術交流や文化交流は盛んであった。特にメキシコ海軍は米国の退役艦を受け取ったことにより、大幅にその戦力を増強した。また50年代には資源の外国への依存を断ち切ることを目的に、国内の資源の重点開発が行われ、鉄鋼、銅、石炭、そして原油の生産量が大幅に向上したが、その後ソ連から安価に特別価格で原油が供給されるようになったことや、メキシコ湾の油田は海底油田であり開発コストが高いことなどから、原油の資源開発は停滞した。メキシコの安い人件費で生み出された大量の製品は、外国に輸出され、外貨収入は飛躍的に拡大した。
米墨対立
米墨関係の悪化の直接のきっかけとなったのは、1958年のキューバ革命である。親米政権であったバティスタ政権がカストロら率いる革命軍に打倒され、革命政権が樹立されると、メキシコはカストロ政権を支持し、武器弾薬を供給した。カストロ政権は米国による冷遇に不満を持ち、農地改革法を施行、米国企業のユナイテッド・フルーツ社が所有していたキューバの農地の7割を接収、両国の関係は著しく悪化し、米国はキューバ産の砂糖の輸入を禁止してこれに応じた。同時にキューバの革命政権を軍事的に支援するメキシコに対しても米国は制裁を科し、米墨関係は冷え込んだ。メキシコでは米墨戦争の屈辱から対米強硬論が主流となり、米墨両国の和解は70年代後半まで先送りされることとなった。1965年にはメキシコ製工業製品の一律輸入禁止措置が取られ、メキシコは外貨収入に大きな打撃を受けた。これに対するメキシコの返答は、米国との関係を考慮して1963年から延期されてきた核実験の実施であった。メキシコは対米戦争を見据え、核戦力と地上戦力・航空戦力の大幅増強へと突き進み、第二次世界大戦の戦訓からソ連式の教範を導入、陸軍は、火力と機動力を信奉する大規模な地上軍へと生まれ変わることとなった。
麻薬戦争
米墨関係が悪化するにつれて、アメリカ政府はメキシコの反政府組織を支援するようになったとされる。そして最も有力だった反政府勢力は、麻薬密売により利益を獲得していた麻薬カルテルたちだった。アメリカ政府は公式には認めていないが、メキシコ政府は、アメリカ政府が麻薬カルテルを支援していた明らかな証拠があると主張している。1972年、麻薬カルテルらによる凶悪犯罪の発生件数が急増したことを受け、メキシコ政府はアメリカによる麻薬カルテル支援を非難すると共に、麻薬カルテルに対し「宣戦布告」した。これに対し麻薬カルテルは犯罪の過激化で応じ、北部のシナロア州を中心に凄惨な虐殺事件が数多く引き起こされた。メキシコ政府は警察による対処を諦め地上軍を投入、当初は都市区画に突入しての市街戦を戦術として採用していたが、メキシコ軍内部から横流しされた兵器が麻薬カルテルにわたると被害が拡大したため、都市区画を何重にも包囲し、重砲やクラスター爆弾などで都市区画ごと殲滅する手法がとられるようになった。同時に、農村部での貧富の格差を解消するための政策が実施され、また兵士の給与を引き上げ武器の横流しなどが防止されたことで、麻薬カルテルは兵士と武器の供給源を失い、1975年までに麻薬カルテルの構成員の大半が、爆死または餓死することで、メキシコ麻薬戦争は終結した。凄惨な市街戦により、シナロア州の13の都市が地図上から消滅したとされる。
自由化・第二次高度経済成長
1970年代後半になると、市民の間でもメキシコ政府の独裁に対する不満が高まりつつあった。これは主に、家電製品などの軽工業の生産が軽視されたことにより国民の生活水準の向上が頭打ちになったことに起因していた。また、政府は、電子産業分野への投資が必要だと痛感していたが、ソ連の電子産業はすべて軍需製品で、しかも西側のそれよりも性能面で劣っていた。このため、軽工業と電子産業について、西側の技術を取り入れて近代化することが構想され、メキシコはアメリカに再び接近し始めた。1980年、両国は関係の正常化に合意し、メキシコの冷戦における中立と、地上戦力および核戦力の段階的軍縮が進められることとなった。トロツキーと愛人の間の息子であったホセ・トロツキーが策定した1984年の憲法では、連邦共和制の導入が行われ、住民による地方自治が認められ、地方政治の効率化がすすめられた。各地に経済特区が設けられ、安い人件費と高い教育水準を併せ持つメキシコの労働者たちを目当てに外国企業が流入、メキシコの産業技術は再び大きく発展した。こうして80年代から90年代にかけてメキシコは第二次高度経済成長を迎えた。
2000年以降
90年代から2000年代を通じて、メキシコは中南米に独立した経済圏を築くことを目的として中南米諸国に接近、特にブラジルとは積極的に経済交流が行われている。大規模な人口を有するブラジルはメキシコの経済成長を支える大きな市場となっている。
現在のメキシコは、国政はメキシコ人民民主党による一党独裁で、地方政治については住民が直接政治に参加する方式での自治を認めている。また、メキシコ人民民主党は1984年以降党の綱領を改正し分派をある程度認めたため、「共産主義社会を目指す」という根幹は変わらないものの、その実現手法をめぐって各派閥が意見を戦わせており、ある程度の民主主義が導入されたとも言うことができる。1990年以来メキシコは地上戦力と航空戦力を削減し少数精鋭化するとともに、海軍力を大幅に増強しており、現在では空母4隻、ミサイル駆逐艦16隻、ミサイルフリゲート数十隻を保有する海軍大国となっている。経済状況については、人口が増大し続けていることもあり比較的良好で、名目GDPは2兆1000億ドル、実質GDPは5兆4000億ドルと高水準にある。

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