国家情報

国名属州アフリカ
公用語ギリシア語
ラテン語
首都チュニス
皇帝ギリシア3世
属州弁務官
人口12,000,000人(1200万人)
通貨新ノミスマ

概要

ビザンツ・ギリシア帝国の属州の一つで、現状では唯一アフリカ大陸に存在する属州である。未承認国家のオスマンイスラム共和国連邦亡命政府のアフリカ領土に囲まれているため戦争となれば最前線となるため、常にピリピリした雰囲気が纏っている。
因みに、属州アフリカのアフリカはアフリカ大陸を指す言葉ではなくその由来となったチュニジア周辺の地域を指す言葉である。同時に歴代皇帝たちも「属州アフリカと名を付けたからと言ってアフリカ大陸全土を属州にしようとしている訳ではない。もし、これでアフリカ大陸を全て属州にしようとしていると発言する者がいるとすれば我が国への理解及び、アフリカの歴史を知らない人物であろう。その者には是非とも全人類の誕生地たるアフリカがどのような歴史を歩んできたのかを知ってもらうべきだろう」と言う発言を残している。ギリシア3世も「未だ属州アフリカをアフリカ大陸全土を属州にする野望の表れだと批判する者が一定数存在している。余はそれがとても悲しい。彼らはアフリカの由来を知らず、知ろうともしない愚か者でありトルコ人に勝るとも劣らない人間的劣等種であると言わざるを得ない。彼らが劣等人ではなく立派な人間として立ち直れることを祈るばかりである」とトルコ人へのヘイトスピーチの場で発言している。

国内情報

歴史

カルタゴの栄華
カルタゴが残した資料は、カルタゴの滅亡とともにローマによって全て焼き払われてしまった。その為、ギリシアやローマの文献によってしかその歴史は推測することが出来ない状況にある。
伝説によるとカルタゴの歴史はフェニキアの都市国家ティール(現在のレバノンのスール)の王女エリッサが、王位を狙う兄に夫を殺され身の危険を感じたために財宝を船に積みこみ家臣と共にこの地へやって来たところから始まるとされている。紀元前814年に建設されたこの街は、「カルト・ハダシュト(フェニキア語で新しい街を意味している)」と呼ばれ、後にそれがローマ訛りのカルタゴとなった。
紀元前8世紀から紀元前2世紀にかけて、カルタゴは海上貿易や農業を中心に発展。シチリアやサルデーニャ島、コルシカ島、モロッコ、スペイン南部に植民市を次々に築いていった。カルタゴは航海技術に抜きん出ていて、紀元前450年頃にはカルタゴ人のハンノがジブラルタル海峡を越えて、アフリカ大陸を大西洋沿いに南下。現在の西アフリカのカメルーンにまで達していたと言われている。余談だが当時の航海技術ではジブラルタル海峡を超える事は難しく、神がこの間に立っている為に通る事が出来ないと言われていたほどである。そんなジブラルタル海峡を越えたカルタゴ人の航海技術がいかに優れていたかを物語っている。
ポエニ戦争
地中海栄華を誇っていたカルタゴだが強力なライバルが出現した。エトルリア人、ラテン人、ギリシア人を退け、イタリア半島をほぼ統一したローマである。ローマはイタリア半島を制すると、次なる目的をシチリア島に定めるとシチリア島からギリシア人を追い出していたカルタゴが次の標的となったのである。紀元前264年、シチリア島の権益を巡っての戦争が始まった。これが第一次ポエニ戦争と呼ばれるようになるローマとカルタゴの最初の戦いである。しかし、この戦いはカルタゴの惨敗で終わり、シチリア島の支配権はローマに移った。
しかし、当時の支配地域であったスペインの豊富な資源をバックに国力をすぐに回復させた。そんな時期に歴史の表舞台に躍り出たのが現在もこの地で英雄として祀られているハンニバル・バルカ?である。紀元前218年、スペインに駐在していたハンニバルは、スペインからフランスを経てイタリアに進軍。象部隊などを引き連れてアルプス山脈を越えると、現在でも兵法として教えられている挟み撃ちの戦術を駆使して第二次ポエニ戦争の初期を連戦連勝に導いた。ハンニバルの勢いはすさまじく、最盛期にはローマをナポリの北にまで追い詰める程だった。
ところが、次第に戦況は悪化していき、逆にローマの将軍スキピオの軍勢にカルタゴ本土への上陸を許してしまった。本土へ戻ったハンニバル軍だがザマの戦いで敗北。カルタゴはアフリカ以外の全ての植民地を喪失する事となった。
しかし、そんなカルタゴだが10年後にはローマへの賠償金を一括で支払える程の国力を回復させたがそれがローマにカルタゴへの脅威を感じさせる原因となってしまった。ローマは同盟国である隣国ヌミディア王国との小競り合いを理由に、カルタゴに無理難題を突き付け第三次ポエニ戦争を引き起こした。
3年間の篭城の末、ローマはカルタゴ市街に攻め入った。カルタゴ市民は最後まで徹底抗戦するも、8日間の市街戦の末にビュルサの丘の斜面の市街は火に包まれ、17日間にわたって燃え続けたという。生き残った5万人のカルタゴ人は捕虜となり全員が奴隷となり、残っていた建物は全て破壊された。廃墟はならされ、永遠に人も住めず作物も出来ないように塩が撒かれたという。これにより紀元前146年、カルタゴは滅亡した。
ローマ時代のカルタゴ
ポエニ戦争でカルタゴが滅亡してから100年近く経過した紀元前44年、ようやくローマ皇帝カエサルの手によってカルタゴ再建の決定がもたらされた。彼の死後、紀元前29年、アウグストゥスはローマの都市計画に沿った植民市を滅亡したカルタゴの上に建設した。1世紀にはアフリカ属州の州都がこの地に置かれる事となった。2世紀に入ると大規模な改修工事が行われ、次々に巨大建造物が構築されるようになった。人口は30万人に膨れ上がり、やがてカルタゴはローマ、アレクサンドリアに続くローマ帝国第3の都市に成長していった。この頃からキリスト教徒が増えmキリスト教が公認された4世紀には聖アウグスティヌスが活躍した。
しかし、ローマ帝国が勢いを失っていくと、北アフリカに異民族が侵入し始めた。ガイセリックの率いるヴァンダル族は、カルタゴを首都にした王国を築き1世紀に渡り支配した。この王国は455年にはローマを攻撃出来るだけの勢力となっていた。しかし、悪政が原因で国力が低下すると、534年には古代ローマ帝国の領土を奪回しようとしていたビザンツ帝国のユスティニアヌス1世によって滅ぼされてしまう。
その後はビザンツ帝国の支配下に入るが既にこの頃のビザンツ帝国にチュニジアを治める勢力は既になく、撤退していった。その結果、この地は暫くの間誰にも支配されない時代が訪れたがその期間は長くは続かなかった。
アラブ人によるチュニジア支配
610年頃、メッカから一つの宗教が誕生した。アラブ人、ムハンマドによって伝道されたイスラム教である。
イスラム教布教と言う名目のもとにどんどんと勢力を増していったウマイヤ朝軍は、アラビア半島を制すると、ササン朝ペルシア帝国を滅亡させた他エジプトをも一気に取り込んでいった。その勢いはとどまる事を知らず、チュニジアの地にも進出した。しかし、ムハンマドと僅か200人あまりの同調者から始まり、連戦連勝で僅か30年でアラビア半島、エジプトを制したウマイヤ朝は、チュニジア攻略にはかなり手古摺っていた。
アラブ軍のチュニジア攻略の始まりは、カルタゴからスぺイトラに移動して来たばかりのビザンツ帝国軍を攻撃する事だった。647年、1万の兵を率いたアラブ軍は市街地を襲撃。ビザンツ帝国軍の最高位だったグレゴリーを処刑してビザンツ帝国の都市を奪い取った。
669年にはウクバ率いる軍隊がケロアンに入り、モスクを建てるなどこの地を今後の北アフリカのイスラムの中心地とするべく準備を整えた。ケロアンの整備が終わると、ウクバ隊はすかさずアルジェリア、モロッコを攻め落としに出た。しかし、向かうところ敵なしでsったウクバ隊だが683年、モロッコ侵攻からの帰路でアルジェリアの先住民であるベルベル人率いるベルベル=ビザンツ連合軍に敗れ、ウクバ自身も命を落とした。同時にケロアンも数年間ベルベル人に占領された。
689年にケロアンをとりもどしたウマイヤ朝軍は、ウクバの後任ハッサン・イブン・ノーマンに率いられると695年にカルタゴを占領した。しかし、翌年の696年にはカヒナと呼ばれる女王に率いられたベルベル人の抵抗により、一時リビアまで押し戻された。最終決着は701年でカヒナ率いるベルベル人達をエル・ジェムで追い詰めるとベルベル人達はコロセウムにたてこもり自ら火を放ち命を絶ったという。
ウマイヤ朝からの独立
732年にはウマイヤ朝はスペインを制圧、フランス中部まで攻め込んでおぉイスラム教を広める事には成功した。しかし750年にウマイヤ朝に代わり新たなイスラム教の盟主となったアッバース朝は新たな中心をバグダッドにしたがそこから遠く離れているモロッコ、スペインなどへの支配力は次第に弱まっておった。
8世紀初頭には、チュニジアはウマイヤ朝(及びアッバース朝)の一つの州として認められていたが、独立王朝がマグリブ地方に出来るのはアッバース朝設立後の事である。反乱を起こし、アッバース朝を追われたシーア派がモロッコにたどり着き、788年にベルベル人達の支援によって出来たイドリース朝、そしてアッバース朝によって追放されたウマイヤ朝のカリフたちがスペインまで流れ、後ウマイヤ朝を設立している。
チュニジアに限っては、この2国よりもバグダッドに近い事から、またイドリース朝のシーア派を牽制するためか、正当にアッバース朝に認められた王朝が興った。800年、アラブ軍のエジプト総督の子孫イブラヒムが初代王となったアグラブ応答が興ったが、モロッコのイドリース朝もこの王朝も次世代に登場するファーティマ朝に滅ぼされる事となる。
チュニジアとファーティマ朝
910年、シーア派の中でも過激派と言われていたイスマーイール派がチュニジアにファーティマ朝を築いた。この頃から既にスンニ派とシーア派はライバル心が強く、ファーティマ朝は建国の頃から既に打倒アッバース朝、シーア派によるイスラム圏統一をもくろんでいた。常にアッバース朝征服を目指し、アルジェリアにあったロステム朝、チュニジアのアグラブ朝を滅ぼすと、エジプトまで勢力を拡大。973年にはカイロを建設し、首都をそこに移している。
エジプトに勢力の中心を据えたファーティマ朝は、チュニジア以西をベルベル人に任せた結果、972年にチュニジアにジール朝が誕生した。しかし、ファーティマ朝が去るとチュニジアはスンニ派が中心だったこともあり徐々にスンニ派国家へと変わっていった。その結果、ジール朝はファーティマ朝の配下から抜け出してしまった。
更に、ジール朝がファーティマ朝を越えてスンニ派のアッバース朝と手をムズ棒としているのが発覚。ファーティマ朝は怒り狂い、1051年に遊牧民ベドウィン族の兵を送り込むとケロアン、スファックス、マハディアなど主たる町を攻撃、略奪しつくされた。この時に投入された兵は5万〜10万と言われておりチュニジアはその後暫く廃墟同然となっていた。これ以降は遊牧民化が進み、ノルマン人のシチリア王に沿岸地域を占領される事になった。
沈黙の時代からハフシド朝まで
チュニジアが息を吹き返したのはファーティマ朝の攻撃から約1世紀後の12世紀初頭である。モロッコを発祥とするアルモアードというイスラム新興勢力がアルジェリアを攻め落とすと、1159年にはチュニジアのノルマン人を追い出してマグリブ地方を統一した。
しかし、急速に領土を拡大したことによる反動ですぐに王朝は崩壊。1228年には彼らの一派であるゼナガ族がこの地で独立し、ケロアンに代わりチュニスを首都としたハフシド朝が興る。アラブとしてのチュニジアでは最初の長期王朝が始まった瞬間だった。
1270年にはフランスの国王ルイ9世率いる第7次十字軍第8次とも言われている)が遠征してきたがチュニスを目前にペストの流行により敗走した。
オスマン帝国到来
1492年にイスラム教を追い出しキリスト教国となったスペインは、次第に力をつけ、地中海で強大な力を誇るようになった。一方、そんなスペインの主要な収入源となっていた地中海貿易から利益を得ている海賊が当時は大量に存在していた。スペインはそんな海賊を討伐するべく海軍を送り両者は激突した。これは海賊の拠点が多く存在したチュニジアも巻き込まれる形となっていくが当時破竹の勢いでイスラム勢力の救世主となっていたオスマン帝国が海賊を支援した。
以後約半世紀に渡り両軍は熾烈な戦いを続けた。チュニジアだけに限って言うと、1525年にスペインがチュニスを攻撃、1534年にはハフシド朝を追い出す一方、オスマン帝国率いる海賊連合は、ケロアンと東沿岸沿いを手に入れている。しかしその後はオスマン帝国の勢力圏が拡大した事、スペインの主な収入源が地中海から新大陸に移った事などから、14世紀後半には地中海の制海権はオスマン帝国(この時、海賊は既にオスマン帝国の傘下にあった)の物になっていった。アルジェリアを支配に入れられていたオスマン帝国は、1574年にチュニジアをスペインから奪い取った。
オスマン帝国の一部となったチュニジアだったが、オスマン帝国の最高権力者であるスルタンがその全権を握っていた訳ではない。元々イスラムの歴代帝国は地方分権制を敷いてきていた。オスマン帝国も例にもれずビザンティン(コンスタンティノープル)から役人や軍人を送り、彼らに自治権を与えて治めさせていた。
フランス保護下のチュニジア
19世紀に入ると、チュニジアの衰退は目に見えて酷くなっていく。貴重な収入源であった海賊たちがヨーロッパ諸国の海軍に尽く潰されてしまった事が原因だった。その収入源を失った当時の政権は、ロスを埋めるために増税を課した。更にヨーロッパで起こった産業革命により、安くて良い製品が出回るようになり、チュニジアの製品は売れなくなっていった。イギリス、フランス、ドイツ、イタリアのヨーロッパの列強から借金をするようになっていき借金のかたとして土地の所有権を与えるようになると、重税に耐え切れなくなった国民たちが反乱を起こすようになった。
1878年、チュニジアを含むオスマン帝国の債権国のうち、イタリアを除くフランス、イギリス、ドイツがベルリンで会議を開き、イギリスはキプロス島を領有する代わりにフランスがチュニジアの所有権を得る事で合意した。
フランスは隣のアルジェリアでの失敗を生かして(アルジェリアを直接統治したフランスは反乱を受け統治が難しくなっていた)チュニジアのフセイン朝を用いた間接統治を行った。これらはフランス人を優遇する植民地支配となんら変わる事はなかった。その結果、反フランスの感情が芽生え始め、1920年には自由立憲党(デストケーレ党)が結成され、そこから分離したネオ・デストゥール党が、チュニジアで活躍する事になる。
1939年にはナチスドイツがポーランドに侵攻した事から第二次世界大戦が勃発。1942年にフランスが降伏したことでチュニジアは1年の間ドイツの支配を受ける事になった。
ビザンツ・ギリシア帝国の侵攻
しかし、1943年になると後退する枢軸国軍を海上から攻撃。枢軸国軍に打撃を与えると同時にチュニジアを譲渡する事を条件に本国まで無事に運ぶと提案する。断った場合は海上から攻撃を受ける事は確実であり、包囲される事になる事から提案を受け入れてアフリカから枢軸国は撤退した。ビザンツ・ギリシア帝国はそのまま沿岸部に強襲上陸を行うとナチスドイツから奪い取った土地としてチュニジアを事実上支配し連合国軍の侵入を許さなかった。戦後に正式に占領地を領土として認められると属州アフリカを建国し、アフリカ唯一の領土となった。
しかし、その事を受けてネオ・デストゥール党他チュニジアの独立家は猛反対し、武力行使に至った。しかし、第二次世界大戦に参戦せずに国力に余裕があったビザンツ・ギリシア帝国の前に敗北し、シリア独立戦争のような長期戦になる事無く僅かひと月もかからずに鎮圧された。

領土

チュニジア全土を領土としている。リビア北西部を未回収のアフリカ領と断定しておりその併合を目指している。

政治

属州弁務官と呼ばれる人物によって統治されている。

行政

自国の行政組織について書く。

司法

属州内に固有の司法は無く、属州アフリカ支部と呼ばれるビザンツ・ギリシア帝国の司法が担当を行っている

教育

チュニジアは旧宗主国だったフランスの影響が強く、特に教育面ではその傾向が強い。その為フランスと同じように大学まで全て無償化、国家予算の一部をこの教育費が専用で組み込まれている程である。
そんな彼らに対しても同化政策は行われている。チュニジアでは歴代の王朝の影響(この地を支配した文明を次の支配者が倒し、また次の王朝に倒されるの繰り返し)で混血化が進んでいた。チュニジアにおいて他民族と交わる事は日常の一部と言っても可笑しくはなくギリシア化は属州マケドニアと同じ速度で進んでいる。現在は8割がアラブ系ギリシア人、1割強がアラブ人、残りがその他と順調に進んでおりギリシア化が完了するのはそう遠くない未来に近づいている。

資源

原油を始めとして属州内で賄う事が出来る程度には資源が豊富である。
主な輸出品として電子機器、繊維・皮革製品、自動車部品、リオン鉱石などの鉱物資源、オリーブオイルや小麦、ナツメヤシ、魚類、甲殻類といった農水産物である。

軍事

固有の軍隊は持っておらず、本国の駐留軍約10万人が存在している。

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