シリア独立戦争
:1942年3月〜1947年9月
場所:属州シリア全土
結果:シリア独立軍の壊滅、属州シリアの安定化
交戦勢力
ビザンツ・ギリシア帝国シリア独立軍?
シリア人民戦線?
指揮官
ギリシア2世?
アレス・サマラス
ノエ・サラマス
アーズィム・ヤザン
ヌール・シャーディー
兵数
初期
50,000人(5万人)
最終的
60,000人(6万人)
シリア独立軍
初期
2,000人
中期
20,000人(2万人)
最終的
23,000人(2万3000人)
シリア人民戦線
400,000人(40万人)
損害
20,000人(2万人)シリア独立軍18,400人(1万8400人)
シリア人民戦線130,000人(13万人)



背景

シリアではフランスの植民地になる前から独立の機運が高まっていた。一時期は独立を果たすもフランスに敗れ分割統治を受けていた。その後ヴィシー政府が発足するとビザンツ・ギリシア帝国がシリアに侵攻。全土を併合した。しかし、これをきっかけにアーズィム・ヤザン率いるシリア独立軍?が発足。シリアの独立を目指して反乱やゲリラ戦を展開するようになった。しかし、そんなシリア独立軍の動きとは裏腹に国際情勢はビザンツ・ギリシア帝国によるシリアの領有を認めてしまいこの地は属州シリアとなった。それ以降は次々と勢力を削られて行き、満身創痍となるもギリギリのところで延命をしていた。そして、ビザンツ・ギリシア帝国がオスマンイスラム共和国連邦亡命政府に侵攻するとそれに呼応しシリア全土で決起を起した。

経過


シリア独立軍
濃赤:反乱発生時
赤:1946年9月までの占領範囲
橙:1946年11月までの占領範囲
桃:1947年2月までの占領範囲
黄:一時的な進出範囲
シリア人民戦線
黄緑:反乱発生時の占領範囲
緑:最大進出範囲
シリアでの攻撃はビザンツ=オスマン戦争以前から続いていたがこの戦争後はシリア全土を併合する勢いを得た。開戦後すぐにシリア駐留軍に奇襲を行った。この時、5万人いた駐留軍だが予想外の攻撃であり僅か2000人の兵に倍以上の負傷者を出す事になった。
駐留軍撃退の報は直ぐにシリア全土に伝わった。独立を目指している人々はシリア独立軍に参加し、駐留軍と戦闘を繰り広げた。特にダマスカスはシリア独立軍とは別のシリア人民戦線?が蜂起。ダマスカスを含む南部領を占領し、北上を開始した。これら一連の動きにより駐留軍は本来の目的であったオスマン領への侵攻は行えなくなっていた。年明け時点で駐留軍は1万5000人の死者を出しており、属州シリアは半分の領土を喪失しつつあった。
しかし、1947年7月にオスマンイスラム共和国連邦亡命政府と講和が結ばれるとオスマンからの支援を受けられなくなったシリア独立軍が弱体化した。更に増援が駆け付けると形勢は逆転した。最初にシリア人民戦線が30万の市民兵で4万のビザンツ・ギリシア帝国軍に攻撃を行うも返り討ちに遭い10万ちかい損害を出して撤退した。しかし、この際に主要メンバーは戦死か暗殺されシリア人民戦線はこの一戦で空中分解しダマスカスを含む占領地を僅かな期間で奪還した。そして1947年8月からシリア独立軍に向けて一斉に反攻作戦を開始した。そして翌月の9月にシリア独立軍は最後の拠点を失い壊滅した。

影響

これ以降シリアではクーデターや反乱がおこる事はなくなり安定した統治が行う事が出来るようになった。

戦略

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