国家情報

国名属州イリュリクム
公用語ギリシア語
ラテン語
首都ザグレブ?
皇帝ギリシア3世
属州弁務官
人口7500,000人(750万人)
通貨新ノミスマ

概要

ビザンツ・ギリシア帝国の属州の一つ。イリュリクムとはかつてのローマ帝国時代の属州の名前が由来となっている。

国内情報

歴史

イリュリクムはクロアチアとボスニア・ヘルツェゴヴィナを合わせた領土の為、二つの歴史を持っている。

クロアチアの歴史

クロアチア王国の誕生
現在のクロアチア地域に南スラヴ人が移住してきたのは6世紀頃の事。この南スラヴ人は、部族や士族単位で南下し、やがてブルガリア、セルビア、クロアチア、スロヴェニアの4民族へと発展する。クロアチア人は9世紀以降、ビザンツ帝国の派遣した宣教師の影響でキリスト教を受け入れ、スラヴ語による典礼やグレゴール文字を使用していたが、11世紀の東西教会分裂以降はローマカトリック地域となった。一方でセルビアなどは東方正教会の影響下に組み入れられていった。
最初の独立国家クロアチア王国は、10世紀初頭に建国された、彼らはダルマチアから支配領域を広げていき、マジャール人からの侵攻を受けながらもバルカン半島西部へと勢力を拡大した。その後、クロアチアのトミスラフ候の活躍で王国を築く事に成功した。一時は大国のビザンツ帝国に対抗できる力を持っていた。
ハンガリーの弾圧と支配
11世紀に入ると、隣国ヴェネツィアとハンガリーが強力となり、クロアチア王国はこれら大国に依存する事で民族の活路を見出していった。11世紀初頭、ダルマチア地方の諸都市がヴェネツィアに占領された。その結果、クロアチアの有力諸侯はヴェネツィア派、ハンガリー派の2大勢力に分断された。両派は隣国王族と縁戚関係をもち相争ったが、11世紀後半に当時のハンガリー国王、ゲーザ1世の妹を王妃に迎えたクロアチア王国ズヴォニミルが殺されると、ハンガリーは徹底したクロアチア弾圧に乗り出した。そして1097年、ペトロヴァ・ゴーラの決戦で、ダルマチアの太守ペーテル・スラヴァクを打ち負かした。このヴェネツィア派太守の戦死をきっかけに、1102年にハンガリー国王コロマンはクロアチア貴族との間に「パウタ・コンヴェンタ(連合条約)」を締結した。この条約は、両国関係を対等としたものだったが、現実的にはクロアチアの従属を決定づけるものになった。クロアチアは、この条約を締結してから第一次世界大戦までの間、ハンガリー王国と、後のオーストリア=ハンガリー二重帝国の支配下に置かれる事となった。
ハプスブルク家の支配でクロアチアは先進的なヨーロッパ文化を享受する事になった。オーストリア=ハンガリー二重帝国時代には、広範な政治的自治権を認められ、文化的な自立が進んだ。しかし、ナポレオンの登場とハプスブルク家の没落で、クロアチアに少しずつ民族再生の動きが強まり始めた。
ユーゴスラビア王国と属州に
その後1848年のヨーロッパの「諸民族の春」を経て、第一次世界大戦でオーストリア=ハンガリー二重帝国が崩壊すると、1918年に「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人の王国」を建国した。しかし、国家は上手く機能しないまま1929年、セルビア人主導のユーゴスラビア王国へと強引に改称された。
1939年にチェコスロヴァキアが侵略されると、ユーゴスラビア王国は枢軸国側についた。ナチスドイツの支配に不満を持っていたセルビア急進党支持者は抵抗したが、即座に報復を受けて降伏した。そして1941年、ナチスドイツはパベリッチ総統を元首とする傀儡政権「クロアチア独立国」を組織した。パベリッチ率いるテロ組織ウスタシャは、クロアチア国内に住むセルビア人、イスラム教徒などを殺害、追放し、カトリックへの改宗を迫った。この様なファシズム体制下のクロアチアで活躍したのがチトー率いるパルチザン部隊だった。パルチザン部隊はビザンツ・ギリシア帝国による掃討戦が行われるまでナチスドイツの支配に抵抗し続けた。
1944年、ビザンツ・ギリシア帝国は北上を開始した。僅かひと月でアルバニア王国や北マケドニアを征服したビザンツ・ギリシア帝国はクロアチアでナチスドイツ軍と死闘を繰り広げた。その結果スロヴェニアへの進出は阻まれ、イーストラ半島を除くクロアチアまでを占領した。第二次世界大戦後の1946年にユーゴスラビア王国は解体され、ビザンツ・ギリシア帝国の属州となった。
チトー率いるパルチザン部隊はその後もクロアチアを中心に抵抗を続け、ユーゴスラビアの再建を目指したが1948年に罠に嵌められたチトーが戦死して以降はパルチザン部隊の活動はほぼなくなった。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナの歴史

多民族、多宗教の入り混じった地域
ボスニア・ヘルツェゴヴィナの歴史は紀元7世紀にまで遡る。7世紀前半に各方面からこの地域に移住したスラヴ人は、既にセルビア人とクロアチア人が混在していた(セルビア人とクロアチア人の違いは人種の違いではなく、信仰する宗教の違いである)。スラヴ人はポサヴィナ(サヴァ川)、ボスニア(中央部のボスナ川の源流地域)、フム(現在のヘルツェゴビナ)、ドーニ・クライ(ボスニア東部)などに集落をつくり、やがていくつもの小さな領邦を構成するようになる。
大国による支配をくぐり抜けて
その後ボスニアは、11世紀に中世クロアチア王国の支配を受け、13世紀に居は事実上の独立国家を形成した14世紀になるとトヴルトコが名乗りを上げ、中世ボスニア王国として現ボスニア・ヘルツェゴヴィナ地域を事実上支配する。トヴルトコは1389年のコソボの戦いでもセルビア側に援軍を送っている。
しかし15世紀にはオスマン帝国が侵攻し、最終的には1527年に全土がオスマン帝国の領土に組み込まれた。この時比較的長い間抵抗を続けたのがヘルツェグ公ステファンで、その地域がヘルツェグの土地(ヘルツェゴヴィナ)と呼ばれている。
北のハプスブルク帝国との境界にあたるボスニアは、軍事的に重要な位置を占めた。後に400年続くオスマン帝国支配は、非イスラム教徒に対して比較的寛容なものだったが、異教徒による支配への不満は時を追うに連れて大きくなっていく。1875年のはヘルツェゴヴィナの農民反乱が発生。封建的な土地支配に対する農民運動はモンテネグロの軍事的支援を取り付け、オスマン帝国が派遣した鎮圧軍を各地で撃退していく。またこの波はヘルツェゴヴィナの境界を越え、ボスニアにも波及。ボスニア蜂起へと広がっていった。
このボスニア・ヘルツェゴヴィナの蜂起はバルカン全土に影響を与え、1876年、セルビア公国やモンテネグロ公国もオスマン帝国に宣戦布告。更にロシア帝国とオスマン帝国との戦争、露土戦争へと広がっていった。既に弱体化していたオスマン帝国はこれに敗北し、1878年のサン・ステファノ条約により、モンテネグロ、セルビア、ルーマニアが独立し、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの自治権が認められた。しかし、この条約はかなりロシア帝国に有利だったため、イギリスとオーストリア=ハンガリー二重帝国が反対し、同年ベルリン会議が開かれ、様々な調整の後ボスニア・ヘルツェゴヴィナはオーストリア=ハンガリー二重帝国の軍事占領下に置かれる事となった。
結局、支配する帝国が変わっただけで、土地改革などはされないままだった為、各地でしばしば農民反乱が起きた。さらにオーストリア=ハンガリー二重帝国がボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合する兆しが見えると、反帝国の機運が高まった。その様な中で、スラヴの統一を掲げた青年ボスニア党が結成される事になる。
第一次世界大戦の原因となった土地
1914年、7人の青年ボスニア党のメンバーの一人、ガブリロ・プリンツィブが、サラエボ?を訪問中のオーストリア=ハンガリー二重帝国の皇太子夫妻を暗殺。このサラエボ事件が第一次世界大戦の火蓋を切った。大戦でオーストリア=ハンガリー二重帝国が崩壊すると、1918年に「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人の王国」が建国され、ボスニア・ヘルツェゴヴィナも組み込まれた。しかし1941年にナチスドイツの傀儡国家「クロアチア独立国」が誕生するとそちらに組み込まれた。
1944年、ビザンツ・ギリシア帝国が侵攻、占領した。1946年に正式にビザンツ・ギリシア帝国領となるとクロアチアと合わせて属州イリュリクムとして建国された。
英雄か?それともテロリストか?
第一次世界大戦を引き起こすきっかけとなったガブリロに対してビザンツ・ギリシア帝国は一貫して「史上最悪のテロリスト」として扱っている。第一次世界大戦を引き起こし、数千万人もの死者を出した戦争を起こしたからである。その一方でビザンツ・ギリシア帝国がユーゴスラビアに侵攻するきっかけとなった事も事実であり皮肉にも彼が目指したスラヴ人の統一はギリシア人への同化と言う形で実現しようとしている。
この事はギリシア2世?も言及しており、「もし、ギリシアの英雄を決める時が来たのなら彼のテロリスト(ガブリロの事)は必ず名前があがるだろう。二重帝国を崩壊させ、民族自決の名のもとに周辺地域を弱体化させ、ナチスドイツ、イタリア、そして我らが領土を拡大するきっかけを作ってくれたのだから。我らはその褒美として彼が掲げたスラヴの統一を目指そうではないか。我らギリシア人と同化するという方法でな」と言葉を残している。
どちらにしろ彼が目指した世界は、彼が動いたことで最も遠い位置にたどり着いたであろうことは事実である。

領土

現代のイーストラ半島を除くクロアチアとボスニア・ヘルツェゴヴィナ領を合わせた物となっている。

政治

属州弁務官による統治が行われている。

行政

属州イリュリクムにはクロアチアとボスニア・ヘルツェゴヴィナの二つの地域に分かれており、クロアチア地域では群が、ボスニア・ヘルツェゴヴィナでは県が下に存在している。

司法

属州内に固有の司法は無く、属州イリュリクム支部と呼ばれるビザンツ・ギリシア帝国の司法が担当を行っている

資源

主要な資源と言える物はほとんどない。その為、事実上観光業以外では本国からの経済的利益に依存している状態にある。

軍事

固有の軍隊は持っておらず、本国の駐留軍約10万人が存在している。

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