概要

ビザンツ・ギリシア帝国において独立時よりトルコ人への憎悪の感情が強かった。そのため、国内に住むトルコ人への弾圧が激しく行われる事になったがこれがきっかけでギリシア人の団結と愛国心が高まる要因ともなった。

歴史

オスマン帝国から独立を勝ち取ったビザンツ・ギリシア帝国だが国内には多くのトルコ人を抱えていた。彼らはギリシア人ではなくオスマン帝国への愛国心やムスリム故の反発などがありビザンツ・ギリシア帝国に協力的ではなかった。
当初こそ国民の団結と言う形でビザンツ・ギリシア帝国に愛国心を持ってもらおうとしていたがその時にその方針を破却させる事件が起こった。1838年、ムスリムであったトルコ人の青年がギリシア人の女性を惨殺する事件が起こった。その青年は女性に好意を持っていたが彼女はギリシア正教会の信徒であり無理やりに改宗を強要し断られた事で青年は激昂し数十回の殴打の後、周辺にあった壺などを頭部に叩きつけた*1。最後には割れた壺の破片で女性の体を切り裂いた。その後も続けようとしたところを編成されたばかりの治安維持組織によって拘束、取り調べが行われ詳細な理由が判明した。
この事件はギリシア中に広がり、ギリシア人にトルコ人憎しの感情を増幅させるきっかけになった。バイエルン王国の王子であり、皇帝となっていたオットーはこれを利用。ギリシア人に訴えかける事で自分の権力を確固たるものにすると同時に政治に関して対立していたイギリス、フランスを牽制する事となった。オットーの訴えにギリシア人たちは同調。権力がオットーに集まるのを容認し、何もせず、国内統治を続けようとするイギリスやフランスを追い出す動きが始まりビザンツ・ギリシア帝国の基礎を固める事となった。
自らの権力を確固たるものにしたオットーは直ぐに行動に移した。女性を惨殺したトルコ人の青年を公開処刑し、トルコ人に対して憎しみを抱くように印象操作を開始した。これによりギリシア人達の間でトルコ人への弾圧が始まり、オスマン帝国がテッサリアを割譲した1881年には国内にいたトルコ人は半分にまで減少していた。これは第一次世界大戦後の1923年に民族強制交換が行われるまで続き、それ以降に残ったトルコ人は政府主導の弾圧により半世紀もしないうちに全滅する事となった。

その後

ギリシア人たちのトルコ人への憎しみは今ではない。しかし、自分たちの大切な首都であるビザンティンを不当に占領し続けるラントゥート共和国に対していい感情は持っておらず、2000年に行われた極秘の世論調査*2ではラントゥート共和国に対して悪感情を持っているギリシア人が1000人中940人を超える結果を生み出している。
特に街を破壊され、多大な犠牲者を出したパトラではトルコ人憎しの感情が強く、郊外にはトルコ人を貶しギリシア人の団結を唱え、街を復興させるという硬い意思が掘られた石碑がある。この地に住んでいたトルコ人は独立後に一斉に弾圧を受け、民族強制交換が行われる前に全滅した。トルコ人達の遺体はばらばらに解体され、海に投げ捨てられた。更にこの地のトルコ人の歴史は全て破棄されており彼らがこの地で何をしていたのか知る事が出来なくなってしまっている。
既にこのギリシア人たちの感情は皇帝にすら制御は出来ていない。今は辛うじて暴発するのを防いでいるにすぎず、何時爆発するか分からない状況にある。

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